波照間島→石垣島→小浜島

小さい頃から、口内炎ができると母親はこう言ったものだった。「チーズを食べなさい」と。何がどういうからくりで効果があるのかは知らないが、口内炎ができる度に盲目的にチーズを食った。そして今も、そうしている。
そして、朝起きた俺は、自分の下唇がとんでもないことになっているのに気付いた。
下唇の外側の右部分に、何とも大きな口内炎が出来ていたのだ。否、正確に言うと「口内」ではない。しかも大きさも嘗てない位のものだ。克明な描写は敢えて避けるが、松本清張の如く腫れ上がっていたといえば、その惨状は想像がつくだろう。
どす赤黒く焼けた顔に腫れた下唇。鏡に映っているのは、本来の自分ではない。最早これは異形の生命体だ。とっとと東京に戻りたくなったが、飛行機が出るのは翌日の夕刻であることには変わりない。売店でチーズを買わなかったことを、俺は心底後悔した。
こうなると、まともに人の顔を見て会話するのも難しい。常に下唇を噛みながら、そして茶碗で顔を隠すように朝食をかきこんだ。

昼前の船で石垣島の離島桟橋に戻った。背中のバックパックが赤く焼けた肩に食い込む。荷物も放り出したい気分だった。
最後の一泊は、小浜島辺りでのんびりと過すことにした。心穏やかに、出来ることならあまり人と接することなく最後の夜を過そうと俺は思っていたのだ。
そして、その日の宿には、俺の他に、女子大生の子が一人泊まっているだけのようだった。
泊まった宿は、沖縄出身の某男性ボーカル&ダンスグループのメンバーの一人の祖父ちゃん家、ということで、俺の目の前に座っている女子大生の子は、そのメンバーのファンだと言う。どうやら、それだけでこんなところまでやって来たらしい。えらいなぁ。
当たり前のことだが、趣味も世代も異なる2人が、中途半端に広い食堂で向かい合って晩飯を食べても盛り上がらない。そもそも、俺はとてもしゃべれる状況ではなかったし、相手が下戸なので、酒に頼ることもできない。仕方ないので俺は、一人で八重泉をあおり、その気まずい空気を誤魔化すことにした。
なんとも締まらない晩御飯を終え、俺はそうそうに部屋に篭った。少し酩酊していたが、部屋に備え付けられていた本棚に放置されていた、遥か昔の『週刊少年マガジン』や『週刊スペリオール』などなど合計10数冊の漫画を、全て読破することにした。懐かしいとかそういう話ではないのは、言うまでもない。

気付けば、知らない間に眠っていたらしく、真夜中に俺は、“ドーッ”という音で目が覚めた。窓の外を見てみると、嵐だった。
風がうなり声を上げながら宿の庭の木々を激しく打ちつけ、僕の視界を無数の雨の弾道が真横に通りすぎていく。時おり、遠く暗い南の海に稲妻が走り、カーテンの無い窓を突き抜けて部屋の中を青白く照らし出す。
しかし、この嵐がHさんたちをも流してしまうことになるとは、この時には知る由もなかった。

こうして、八重山を巡る今回の旅は終わった。
旅の間、ずっと酩酊していたような気がする残ったのは、焼け爛れた肌と、腫れ上がった下唇と、取り損ねた写真と・・・あとは何だ?