岩本千綱『暹羅老士安南三国探検実記』

岩本千綱(1858-1920)『暹羅老士安南三国探検実記』博文館, 明治30.9, 192p.
渡航時期:明治29年(1896)-30年(1897) 渡航先:タイ、ラオスベトナム

<本文>

 本書は、岩本が、相棒の山本賸介と共に僧侶に変装して、タイのバンコクから、フランス勢力下のラオスを経由してベトナムハノイまで走破した時の記録。岩本は鉄脚坊、山本は三無坊と名乗って俄か「冒険的遠征僧」となり、托鉢用の鉄鉢と蝙蝠傘・毛布を持って、弥次喜多よろしく珍道中を繰り広げる。
 旅に際して先立つものがなかったので、先々でのお布施頼みの無銭旅行であった。そのため、エピソードも面白くなる。道中、キニーネを病人に与えたところ病人が回復し、村人から活仏と崇められたり、寺の勤行に参加する羽目になって滅茶苦茶な経を読んだり、祈祷を依頼されたのに供物を平らげた挙句に酔いつぶれたりと、読んでいて飽きない。

 明治20年代の日本は、「南洋・東南アジアに(経済的に)進出すべし」という「南進論」が主張された時代であった。結果、南洋を中心に、数多くの日本人が旅立っていった(彼らの旅行記はまた改めて紹介したい)。
 岩本もその影響を受けて、東南アジアで唯一独立を保っていたタイへの植民活動に従事するが、あえなく頓挫。「今後の植民のためにかの地の地誌を」ということで行われたのが、この旅だった。
 一方の山本は、折からバンコク留学中であったのだが、この旅に同行するのに際しては、榎本武揚等から高岳法親王平城天皇の皇子で、唐から天竺に向かったが、ラオスで没したと伝えられていた)御遺跡捜査の密命を受けていたという。しかし、山本は帰国を目前にして、ハノイで病死してしまったのだが・・・。

 岩本は、帰国後もタイへの植民運動を実現しようと奔走したが世間に注目されること無く、不遇のうちにこの世を去った。とはいえ、まだ東南アジアに関する情報が少なかった時代においては、岩本没後もこの本の価値はあったらしく、1943年に再版され、日本軍の南方政策の際の参考資料ともされたようである。

 ちなみに、世界一周旅行を果たした中村直吉がその旅行記『南洋印度奇観』(博文館 明治42年)の一章「快男子岩本千綱君」で、シンガポールで岩本に会ったことを書き留めている。この旅行後も東南アジアへの植民活動に執念を燃やしていたときの岩本の姿だろう。

ルート;
バンコク→アユタヤ→コラート→ノンカーイ→ビエンチャン→ルアンパバン→ムアンシン→ムアンサイ→バンブー→ハノイ