松川二郎『樺太探検記』

松川二郎(木公) 『樺太探検記』 東京, 博文館, 明治42(1909)年, 175p.

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もっぱら旅に関する文章を寄稿して生計を立てるプロのライター/作家も最近は珍しくはないが、その魁とも言うべき1920〜1940年代に活躍した人間となるとどうだろうか。この時代、日本では旅行熱が高まり、旅にまつわる雑誌や本が多く出版された時代でもある。この時代に活躍したのが、本書の著者、松川木公こと松川二郎*1。なお、本書が書かれた時期、樺太(サハリン)は日本の領土であったため、松川は「越境」したわけでも何でもないことになるのだが、そこは突っ込まないでいただきたい。

明治20(1887)年に福井県で生まれた松川は、読売新聞に就職する。そして41年12月22日、「探検記者」として上野駅から夜行列車に乗り、青森、函館を経て、そして小樽から樺太に向けて出航した。船は冬の宗谷海峡の荒波に難儀しながらも大泊(コルサコフ)に到着する。大泊から当時政庁の置かれていた豊原(ユジノサハリスク)までの移動には鉄道を利用したようだ。

さて、松川がこの本を執筆した動機だが、彼の地が国内では「継子扱」されて「如何に愉快なる土地で且又如何に大いなる富を包有する天然の宝庫である」ことを説明するためだと言う。そのため、松川は「樺太の精」を登場させ、その口から、樺太がいかに水産資源に恵まれた土地であるかを力説させ、また住民の構成(ちなみに、明治40年当時の人口は2万人余、うち日本人は1.8万人余だったそうだ)やら先住のギリヤーク(ニヴフ)の人々の生活やらを語らせ、そして20年後には有数の避暑地として世界中から旅行客が訪れるであろうと言わせている。態の良いプロパガンダである。

ひととおり「樺太の精」に語らせた松川は、年が明けて1月7日犬ぞりを駆って樺太縦断の旅に出る。その後、アイヌの家で吹雪に閉じ込められたり、アザラシ猟に出て遭難して救助されたりとドタバタな旅を続けたようだ。当初の予定では樺太からシベリアに渡って探検することになっていたのだが、この遭難で体調を崩したために樺太で旅を切り上げることになったようで、このため「シベリア大探検記」となるはずの本のタイトルが「樺太探検記」となったとのこと。仮にこのままシベリアに渡っていれば、樺太の記述はもっと少なくなっていただろうから、「当時の樺太の記録の充実」という意味では、それで良かったのかもしれない。

最後に。この本の文章は、自分の失敗談などを盛り込みながら、全体として軽妙なコメディタッチで書かれていて、非常に読みやすい。そういった点でも、後にプロのライターを生業とするに十分な素質があったと言うべきだろうか。それにしても不可解なのは、どうして旅するには厳しい冬を選んで松川は樺太に渡ったのか、である。