関露香『本派本願寺法主大谷光瑞伯印度探検』

関露香『本派本願寺法主大谷光瑞伯印度探検』 東京, 博文館, 大正2(1913)年, 326p.

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大谷探検隊を組織し、時には自らも中央アジアを踏破した大谷光瑞のインド旅行・仏蹟調査の一部始終がまとめられた本…と思って読んでみたら、どうも違う。結論を言ってしまうと、これはどう読んでも、関露香のインド・ビルママレー半島を巡る旅行記だ。

デリー旧市街路地のオムレツ屋
関露香は大阪毎日新聞記者。社命により、明治42(1909)年の大谷のインド旅行に同行した。会社としては、大谷が1902年から1904年にかけてのインド仏蹟調査で霊鷲山を発見したようなセンセーショナルなニュースを期待しての出張だったと推測する。
まずは旅程をざっと確認してみよう。
明治42年9月24日、大谷一行とともに神戸を出航。上海、シンガポール、ペナン、コロンボ等を経て10月18日ボンベイ(ムンバイ)到着。大谷一行はそこからすぐに急行列車で中央アジア探検から戻ってくる門弟の橘瑞超を出迎えるため鉄道(急行)でにスリナガルへ。準備ができていなかった関はムンバイに残って装備を調えてから、11月に入ってから鉄道を乗り継いでラワルピンディへ。そこから馬車でスリナガルへ向かうも病気に罹り途中で断念。大谷たちとはデリーで合流することとして、一人でラホールやアムリトサルを観光。デリーで大谷たちと合流するも、更にマラリアに罹る。ある程度癒えたところで大谷たちとアグラへ。その後、大谷とは別れてベナレスを経てカルカッタコルカタ)と移動し、再び大谷たちと合流。ここから大谷たちは再度準備を整え、年末までの予定でブッダガヤ方面へ仏蹟調査と向かう。準備のできていなかった関は一人コルカタに残り準備を始めるも、一人道中に不安を感じ大谷一行を追いかけるのを諦める。そこで、ペシャワールから別行動してた大谷門弟の別動隊の到着を待って行動をともにしようと考えてダージリン観光を挟みながらその到着を待つも、数日遅れたことから待ちきれずにしびれを切らし、帰国を決意。折りから日本の美術品販売のため京都からコルカタに来ていた野村正次郎と一緒に、海路、ビルマのラングーン(ヤンゴン)経由でペナンへ渡り、そこからマレー鉄道でシンガポールへ。
本書はここで終わっている(シンガポールからそのまま日本に向かったとすれば、翌明治43年の春までには帰国しているだろう)のだが、一瞥してわかるように、大谷一行と過ごした行程よりも関が独自に旅した行程の方が遙かに多い。これが冒頭、この本はタイトルとは裏腹に関自身の旅行記だと書いた理由だ。当然ながら、大谷について書かれているのは、実際に関と交わした会話や大谷と合流したときに聞いた旅の様子のほんの概略だけ。あくまでもメインは関の見聞・調査した内容。送り出した大阪毎日新聞社が意図していたのはこういう旅だったのかどうか。
更に言うと、関と大谷が同道する行程が短かったのも関の自業自得としか思えない。ムンバイとコルカタで大谷達に置いて行かれた理由は、単に関の準備不足。とりわけコルカタでは大谷門弟が調査の準備に走り回っている間、関は市内観光(取材?)やら現地の日本人との交歓をしており、準備する時間がなかったとは贔屓目に見ても思えない。その挙げ句に、あと1,2週間もすれば合流できる大谷たちを置いて先に帰国というのでは、大阪毎日新聞社は人選を誤ったのではないかとツッコミを入れたくもなる。

ヤンゴン・シュエダゴンパヤー境内
その結果看板に偽りありの本書だが(そうせざるを得なかったのかもしれないが)、関露香本人の旅行記として読んでみれば、それはそれで楽しめるものになっている。ムンバイで見聞したパールシー(ゾロアスター教徒)の建造した葬送施設ダクマ(沈黙の塔)の紹介や、アーメダバードへ向かう車中で道連れになった自称ロシア人が実は関の風体を怪しんだ総督府密偵だったというエピソードや、今もインドを旅する者が悩まされるインド人やインドの列車事情などなど、興味深い記述も多い。
個人的に最も引っかかったのはヤンゴンのシュエダゴン・パヤーでの次のエピソード。
馬車から降りた関と野村がシュエダゴン・パヤーに入ろうとしたところ、門衛に行く手を阻まれる。言葉も通じないので、入れろ入れないで取っ組み合いをしていたところ、英語を解する人がいたのでようやくその理由が判明する。何と、入り口の横には「欧州人に非らざる限り東洋人は総て脱靴すべし」という看板があり、門衛は関達に入るなら靴を脱げと言っていることが判明する。それに対して関は、欧州人と同様に文明化した日本人がなぜ靴を脱がなければならなのかと食い下がるが、門衛も折れずに「仏教徒なら脱げ」とやり返す。関はそんな屈辱的な扱いを受ける位ならもう入らないと言って、パヤーに入らずに帰ったのだった。
現在ミャンマーを旅すると、国籍を問わず寺院に入るためには靴を脱ぐことになっているが、英国植民地であった当時、仏教徒でもない欧州人は対象外だったらしい。「欧州」=「文明」=「文明開化した日本」という当時の日本人の考え方がよく分かるエピソードだ。もっとも、大谷が一緒であれば果たしてこんな悶着を起こしただろうか。
なお、関は橘瑞超が口述した『中亜探検』(博文館, 1912年)の編集も担当しているが、こちらの紹介は別の機会に譲ることにしたい。