サードプレイスの獲得と消失

これから書くことを一言で片づけてしまうと、「馴染みのバーが閉店してしまった」ということだ。


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代々木八幡のショットバー、ミュアウート(MioRuilt)。腕の良いマスターが一人で切り盛りする、カウンターだけの小さな、けれども本格的なバー。2014年1月28日をもって、12年近い歴史にひっそりと幕を下ろした。
就職を機に上京してから結婚するまでの足かけ5年と半年、代々木八幡に住んでいた。狭い四畳半の空間で一人悶々としているのも空しいので、僕の上京ととほぼ同じタイミングで開店した近所のバーに通うようになった。それがミュアウートだった。
そこでは、代々木上原〜代々木八幡界隈に住む/働く人が夜な夜なカウンターに座って、酒を飲んだり、お喋りを楽しんだりしていた。誰でも知ってるようなIT企業の社長さんから近所の商店街のおっちゃんまで様々な生業を持つ人が集っていて、社会人一年生&初東京の僕にとっては、大学とも職場とも異なる全く新しい<場>だった。仕事上がりに、飲み会の帰りの〆に、そのまま寝るのが何となく惜しい夜に…僕はその<場>に提供されるアルコールと会話を4年半、思う存分楽しんだ。
中央線沿線に移ってからというもの、ミュアウートに通う頻度は(たまにぶらりと顔を出してはいたものの)めっきり落ちてしまった。そして去年の秋、飲食店不況の波に遂に抗えなくなったために店を閉じることになったとマスターから伝えられたのだった。

ところで、アメリカのレイ・オルデンバーグが1989年に書いた"THE GREAT GOOD PLACE Cafes, Coffee Shops, Bookstores, Hair Salons and Other Hangouts at the Heart of a Community"の日本語訳『サードプレイス:コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」』という本がある。去年、日本語訳が出た。
オルデンバーグによれば「サードプレイス」とは、家庭でも職場でもない「インフォーマルな公共生活の中核的環境」であり、「目新しさ」「人生観」「心の強壮剤」「友だち集団」といった見返りを受け取ることができて、次のような特徴を持つという。

  • 個人が自由に出入りでき、誰も接待役を引き受けずに済み、全員がくつろいで居心地がよいと感じる<中立の領域>である。
  • 一般大衆にも敷居が低く、正式な会員資格や入場拒否の基準がない、<レヴェラーにする(人を平等にする)場所>である。
  • そこで行われる持続的な活動が、素敵で、活発で、機知に富み、そして華やかで魅力的な<会話>であること。
  • 人が昼夜を問わずほとんどいつでも、きっと知り合いがそこに居ると確信して一人で出かけていける、しかし総じて地味な物理的構造を持つところである。
  • その場所に特色を与え、いつ訪れても誰かしら仲間がいることを確約してくれる常連がいて、往々にして家より家らしい。

そして、オルデンバーグはこう続ける。

現代社会がサードプレイスを増やしそこねたせいで失いつつあるものは、形式ばらない気軽な帰属によって生じるお手軽版の友情や意気投合だ。肩の凝る友だちづきあいを補完するものとして、他の交友関係には不可欠な出費や義務を免れ、人びとがただ楽しむだけに集う場を設けるべきである。

この後、オルデンバーグは、「サードプレイス」を体現するものとして、ドイツ系アメリカ人のラガービール園やイギリスのパブ、フランスのカフェやウィーンのコーヒーハウスといった、(解説のマイク・モラスキーの言葉を借りるならば)「地元に根付いた、小ぢんまりした人間中心の社交の場」を紹介していくのだが、その根底にあるのは、「公共の領域を捨てて私的引きこもりを取るというトレードオフ」を方針として掲げてきたアメリカの経済とその結果生み出された社会への疑問である。ここで描写されている、郊外が拡大し都心部が空洞化した1980年代後半のアメリカ社会と、今の日本の社会には(異なる点ももちろん多いのだが)重なる点も多いことに気づくだろう。
そして今、日本ではその上でゼロ年代と3.11を経て「コミュニティ」や「場」という掴みどころがない言葉が喧伝されている(そういう文脈で考えると、今になってようやくこの本が邦訳される「機が熟したのだ」と思えなくもない)。読んだ人の脳裡に去来するのは、郷愁を誘うような赤提灯の居酒屋だろうか、小さな隠れ家的なバーだろうか、それとも(オルデンバーグに言わせると「サードプレイス」とは似て非なるものだが)居心地の良いソファーがあつらえられたスターバックスのようなカフェだろうか。


話を戻そう。
ミュアウートのような「サードプレイス」の獲得と消失は、誰しも似たような経験を持っていることだろう。ただ、誰しもが“ドンピシャ”な「サードプレイス」を獲得できるわけではない。それらは、立地、店の出すものや雰囲気、店主や常連さんたちのキャラクター、最初に訪れたときのコンディション…それら全ての条件がはまるという“ミュアウート”(ゲール語で“奇蹟”の意)によりもたらされるものだから。
そう考えるとこのミュアウートという<場>は、少なくとも代々木八幡に住んでいた頃の僕にとっては、かけがえのない「サードプレイス」だったと断言できる。


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ミュアウートの最終日、10年以上もほぼ毎日通い続けている常連の女性―もちろん飲み友だちだ―にきいてみた。ここがなくなったらどうするんですか。どこか違う店に行くんですか、と。
「みんなに同じことを訊ねられるけど、もうどこにも行かないつもり。この店だから良かったんだもの。それで違う店にいっちゃったら「どこでも良かった」ってことになるでしょ?」
僕はその言葉に、そうですよね。と相槌を打ってから、マスターとちょっと長めの握手をして店を出たのだった。


WHAT IS THE LIFE WITHOUT LOVE AND Uisge-Beatha ―愛と酒のない人生なんて!