小西増太郎 『聖地パレスチナ』

小西増太郎 『聖地パレスチナ』 東京, 警醒社書店, 大正2(1913)年, 326p.

本文


小西増太郎(1861-1940)は岡山県生まれのロシア文学者で、二度のロシア滞在経験を持つ。一度目の滞在ではモスクワ大学で心理学を修める傍ら、トルストイとともに『老子』のロシア語訳に取り組んだことがよく知られている。1909年から1912年の二度目の滞在の間には、トルストイの葬儀に参列するほかに、パレスチナを訪問していたらしい(具体的な日付の記載はないが、「二度目のロシア滞在時に赴いた云々」というくだりがあるので、明治時代の旅行とみてよい)。小西は本書で、「聖地研究」という看板を掲げているが、パレスチナはキリストの時代から風俗習慣が変わらないので、彼の地を研究すればキリストの研究も進むはず…というロジックだったようだ。
オスマン帝国統治下のエルサレム*1旅行記は、ここでも紹介した徳富蘆花の『順礼紀行』をはじめ少ないながらも幾つか存在する*2。それらは熱心なキリスト教徒が、宗教的情熱に駆られて赴いたものが殆どだ。今回紹介する本もその例に漏れないのだが、地誌や遺跡の写真・記述、そしてガイドブックとしての記述(末尾に「附録 パレスチナ旅行案内」がある)の詳細度という点で他の追随をゆるさない。そして何より、他の旅行記の感情を込めた書きぶり(例えば、徳富蘆花や山田寅之助は、(期待を込めていただけに)エルサレムの陰鬱な町並みに失望を隠さない)とは異なる、淡々と事実を述べて行くスタイルは、完全に他の旅行記と一線を画している。また、エルサレムだけでなく、ベツレヘムやナザレ、ガラリヤ湖への旅行記が収録されているのも興味深い。
ところで、「附録 パレスチナ旅行案内」によると、当時パレスチナに渡る方法は、

が主なものであり(小西の場合ははオデッサ経由だろう)、テルアビブからエルサレムまでは1日4本の鉄道で4時間の道のりとのこと。また、ヨルダン方面は治安が悪いから護衛を雇えとか、ベツレヘムは宿がないからエルサレムからの日帰りがよいとか、パレスチナ見物には1日30円の費用が必要だが節約すれば1月70-80円程度までになるとか、通貨はトルコ通貨(バリチク)が便利だがフランス金貨のレートが良い…といった具体的な記述も面白い。
僕自身、エルサレムには1週間滞在しただけだ。けれども、2時間もあれば一通り周れてしまうような狭い空間の、気の遠くなるような長い歴史と様々な宗教・宗派を奉じる人々が集まった密度の高さは、それまでどこでも経験したことのない刺激で満ちていたので、とても印象深い。それはきっと、100年前も同じだったんだろう。
蛇足だが、国立国会図書館所蔵の『聖地パレスチナ』は、住友務氏の寄贈本である。

*1:当時のエルサレム城壁内の人口は90,000人(ユダヤ60,000、パレスチナ20,000、その他トルコ系、ギリシャ系など)で、そこに対して年間20,000人(ロシアから12,000、欧米から3,000、バルカン半島から4,000、その他アフリカ・アラビアから2,000など)が訪れたという。

*2:ちなみに、トルストイに徳富を紹介したのも小西だったという。