エルサレム印象記


 「よく分からない場所だ」
 これが、最初にこの街に行くことになったときに抱いた思いだった。イスラエルという国の立地とこれまでの歩みについて、何冊か本を読んでいたので何も知らなかったわけではない。けれども、日常的に流れてくる海外ニュースはどれもキナ臭いものばかりで、自分があくせくしている世界との繋がりが想像できずにいたのが実際のところだった。
 イスラエルを旅したことのある友人の話も、私をさらに戸惑わせた。好印象として語られたのは、「食事は美味かった」ということくらいで、一人はユダヤバックパッカーに好印象を抱いていないせいか、イスラエル自体に否定的な印象を持っていた。そして、もう一人は、美しい街だったと言う一方で、夜のエルサレム旧市街を歩いていた時に石を投げられたと言う。
 旅行記を読んでも、なかなか肯定的に記述したものがない。100年前に、キリスト教徒であれば当然抱く「幻想」を持ってエルサレムを訪れた徳富蘆花も、街の陰鬱さに失望を隠していない。蘆花だけではない。山田寅之助も、おおよそ似たような書きぶりだ。無理もない。シオニズム運動によりユダヤ人が入植する前の当時は、オスマン帝国統治下の、幹線道路からも外れた田舎街に過ぎなかったのだから。
 結局は、行ってみないと分からない。当たり前の、そしていつも旅先で思い知らされる結論にたどりついた。
 深夜のテルアビブ、ベングリオン空港からタクシーでエルサレムへは、1時間と少しの道のりだ。季節外れの雨が窓を打ちつけていたが、外は真っ暗で何も見えない(帰りに同じ道を通ったので分かったのだが、荒涼とした大地と畑と入植者たちの集合住宅が、交互に目に飛び込んでくる)。少しずつ高度を上げて行くと、前方の小高い山の上に街の灯りが見えてきた。少し俳優のジャン・レノに似たドライバーが、言葉少なに教えてくれた。
「あれがエルサレムだよ」

 ホテルでスーツケースを開く頃には、もうほとんど陽が登っていた。この日は土曜日。ユダヤ教では安息日に当たる。2時間ほど仮眠を取ってから、小雨の舞う旧市街へと繰り出した。
 ホテルのあるシオンの丘を下っていくと、エルサレムの旧市街がパノラマのように飛び込んでくる。天気が良い朝には、オレンジ色の太陽を浴びて、"エルサレムロック"と呼ばれる乳白色のブロックでできた街が一層映える。エルサレムの街自体は気の遠くなるような歴史を持つのだが、今、私たちが目にするこの街の原型は400年前のオスマン帝国統治時代のものだし、そして何よりここ40年余のイスラエル時代で大幅にリノベーションされたようだ。
 10分も歩くと、傍らにダビデの塔を従えたヤッフォ門へと至る。ここで旧市街に入らずに左手に折れてさらに北進すると、ダマスカス門へ行くことができる。私の友人たちが口を揃えてそのフォルムの美しさを湛えていたのだが、残念なことに私の滞在中は工事のためにシートに覆われていた。ダマスカス門の内外にパレスチナ人のマーケットが展開されていることもあって、人通りも多く賑やかなのだが、それに比べるとヤッフォ門は静かなものだ。パレスチナ人の屋台が幾つか出ているだけ。夜ともなれば、さらに人気がなくなる。ちなみに、ヤッフォ門を入って右手に、シオン門の方に折れていくと、アルメニア人の居住区に入る。どういうわけかとてもきれいに整備されているこのエリアには、キリストが最後の晩餐を摂ったという部屋(どう見ても単なる空き部屋にしか見えない)や、ダビデの墓(近くにある公衆トイレの臭いが耐え難い)などもあるが、よほどの思い入れがないと辛い名所だと思う。

 ヤッフォ門に戻る。
 入ってすぐのところから石畳の路地へ一歩踏み入れると、そこからは迷宮のように入り組んだ旧市街。慣れないうちは、すぐに方向感覚を失ってしまう。人々が活動を始める前の早朝は、路地沿いの店も軒並みシャッターを下ろしており、空を覆うアーケードのせいもあってかどことなく陰鬱なのだが、太陽が高くなって店のシャッターが上がり、旅行者が旧市街に入って来ると、様相は一変する。
 軒を連ねる店は日用品やら食料品、そして土産物で溢れ、路地にはエルサレムに住む人ばかりでなく、観光客がどっと押し寄せる。とりわけ、キリストが十字架を背負ったまま歩かされたというヴィア・ドロローサ(「苦難の道」という意味)に至っては、「土産物の道」といった趣で、そこを世界中から集まったキリスト教徒がはしゃぎながら、時には観光客向けに貸し出している撮影用の十字架を担ぎながら闊歩している。通り抜けるのも大変なくらいで、最初は祭りでもやっているんじゃないかと思ったくらいだ。
 中でも、エジプトから来たという、20人ほどのコプト教信者の若者たちが凄まじかった。彼らは、キリストの墓のある聖墳墓教会の近く広場でラジカセから大音量で流れる音楽に合わせて、恍惚の表情を浮かべながら踊り狂っていた。それは正しく「トランス」だった。
 よく考えらたら、キリスト教徒にとっては、ここは「聖地」の中の「聖地」。キリスト教徒である彼らが真剣に祈りを捧げ、そしてはしゃぐのも無理はないのかもしれない。けれども、仏教徒である私たちには、そのテンションについて行くのが難しいのも事実。お土産用のキリスト・グッズに触手が動くこともないし、ここでキリストが飯を食っただの膝をついただの言われても、なかなか感情移入はできない。

 さて、ヤッフォ門から旧市街に入って、まっすぐ中心部へと坂を10分ほど下っていくと、嘆きの壁へと出る。敬虔なユダヤ教徒が壁に額をつけて祈りを捧げる姿がよく取り上げられる場所だ。嘆きの壁の前の広場に入る手前でセキュリティ・チェックがあってものものしいが、見上げると壁の上にはムハンマドが昇天したというモスクの金色のドームがあって、この街の抱える複雑さを見せつけられれば、それもやむを得ないことなのかと思ってしまう。徳富蘆花は、「キリスト、イスラムユダヤの3つの宗教がそれぞれこの街を牛耳ろうとしている」という趣旨のことを書いていたけれど、当時とおそらく事情は変わっていないのかもしれない。
 そのことを一層痛感したのは、ある日のランチでの出来事だった。ランチを一緒にとっていたユダヤ人の男性システムエンジニアが、パレスチナの話になったとたんにそれまでのにこやかな表情を一変させ、そして1オクターブ高い声で吐き捨てた。
「アラブ人なんて全員テロリストだよ!」
 無防備にパレスチナの話題を持ち出した自分の迂闊さを反省しつつも、そのエンジニアが大学出身という経歴にふさわしい知的な風貌と、穏やかな語り口を持っていただけに私は少しショックを受けて、問題の根深さを痛感したのだった。もっとも、別の知人のユダヤ人とパレスチナ料理のレストランに行ったときは、店のスタッフたちも始終和やかな雰囲気だったことを思えば、「人によっては」という側面もあるのかもしれないが。

 この嘆きの壁、私が持っていたガイドブックによれば「ユダヤ人の心の故郷」だということらしいが、ドイツからの移民2世である私の知人は、
嘆きの壁?行ったこともないね。私はそこまで真面目なユダヤ教徒ではないのでね」
と言って笑っていた。ユダヤ人にも色々いるらしい。彼によれば、エルサレムには、他の街と比べて敬虔なユダヤ教徒が集まっていて、わけても旧市街に住んでいるユダヤ教徒は筋金入りだという(男性だと、黒いつば付きの帽子とスーツを着込み、長く伸ばしたもみ上げをカールさせているから、一目瞭然だ)。私がイスラエルに来る前に読んだ本に、安息日に電気のスイッチすら入れないユダヤ人家族や、労働は妻に任せて祈りにのみ時間を捧げる男などの話があって、「本当かよ」と思っていたのだが、どうやら本当らしい。私の知人は、その後にこうも言っていた。
「だからエルサレムに仕事があっても、エルサレムに住まずに(比較的自由な雰囲気の)テルアビブから通ってくる人も多いんだよ。私もそうだがね」
 私の知人も来たことがないという嘆きの壁は、多くの人でにぎわっていた。私も、入口で配られているユダヤ帽を頭頂に乗せて、壁のすぐ側まで足を運び、一心不乱に祈りを捧げる人々の横顔を盗み見た。皆、額を壁に押しつけながら、口の中で何かを一心不乱に唱えていた。こういう場所では、正面切って彼らにレンズを向けることができない。
 その中で、とりわけ私の目を引いたのは、壁の前の広場にへんぽんと翻るイスラエル国旗の下、じっと佇む年老いた女性だった。彼女は壁に近づいて祈るでもなく、誰かを待つでもなくじっと壁を見つめていた。
 彼女は、何を見ていたのだろうか。

 私のエルサレム滞在はつごう一週間ばかりで、密かに狙っていた東西のエルサレムを隔てる分離壁見物もできなかったし、ベツレヘムまで足を伸ばすこともできなかった。おまけに自由になる時間は朝と夜しかなかったので、結局のところ何を見れたということもないし、何かが分かったということもない(確かに、料理は美味かったが)。そして、いつも通りの感想にたどり着く。
「やっぱり、よく分からない場所だ」
 とは言え、それでは締まらないので、最も鮮明に脳裡に焼きついたことを書いて、この雑駁な印象記を終わることにしたい。

 踊り狂うコプト教徒の若者たちから離れて入った聖墳墓教会は、白人の観光客でごった返していた。
 キリストの棺の周りには幾重にも人が囲み、とても近づくことができない。軽い疲労を覚えていた私は、礼拝堂のベンチに腰をおろし、何気なくドームを見上げた。ドームの横手の開かれた窓から強烈な中東の太陽が差し込んでいて、それは薄暗い礼拝堂に突き刺された一筋の光の剣のようだった。私はその瞬間に永い静寂を感じ、息を殺してずっと見上げていた。