ゲントの朝歩き


 朝、起きるとまだ暗い。旅先では、なぜか朝が早い。フィットネスジムなんかがあれば走りに行きたいところだが、このホテルにはない。特にやることもないので、ベッドに座って本を読む。
 しばらくすると、窓の外も明るくなってくる。シャワーをサッと浴びてから、ズボンをはいてシャツを着込み、ネクタイを締めてジャケットを羽織る。そして、最上階のレストランへ。ここの窓からは、フランドル伯の旧居城が見える。いつものように、クロワッサンと牛乳と、少しばかりの野菜とチーズで腹ごしらえ。昼食はビュッフェ形式なので、朝は控えめにしておく。
 ホテルを出る頃には、すでに陽も高くなっている。レイエ川を横目に見ながら、金曜広場へと歩く。レイエ川沿いには毛織物生産で栄えた当時の名残である倉庫が立ち並んでいて、今はこじゃれたカフェやレストラン、ショップが入っている。数日前の夜には、フランドル伯居城へ続く橋のたもとにある小さなレストランで、フランドル名物のワーテルゾーイに下鼓を打ったものだ。この時は、日本から来ていた知人と一緒だった。
 金曜広場には、毛織物で財を成し、百年戦争の時代にフランドル地方の都市を束ねたヤコブ・ヴァン・アルテベルデが今日も右手を青空に差し伸ばしている。広場の周りには、カフェやレストランが立ち並んでいる。昨夜、そのうちの一軒でバケツ一杯のムール貝を肴にベルギー・ビールをたらふく呑んだことを思い出した。ちょっと気は早いが、今夜も楽しみだ。次は、広場から離れた静かなバーに行ってみようと心に決める。とは言え、朝なのでどこも閉まっている。唯一開いているのは、八百屋。近郊の畑で採れたというでかいカボチャがどんと店頭に構えている。
 どうにも食べ物や酒のことばかり思い出してしまう。雑念を振り切るように、広場を斜めに横切る。自分はそんなに食事にうるさい方ではないのだが、ベルギーは何処で何を食べても美味いという気がする。たとえ、駅で食べるホットドッグでも。金曜広場からレイエ川に向かって少し歩いてから左に曲がったところにあるワッフル屋のクリーム・ワッフルも絶品だった。
 広場を抜けて少し裏路地に入っていく。この辺りは本屋や雑貨屋などの小さなショップが並んでいる。どれも趣味が良い。中には、チベット仏教の書籍・雑貨類の専門店もあった。関係があるのかどうか分からないが、この街に着いた日に、チベット人らしき女の子たちを見かけた。チベタン難民のコミュニティがこんなところにもあるのだろうか。路地を抜けると、市庁舎の前に出る。建て増しに次ぐ建て増しを経たらしく、バロックやらロココやらルネッサンスやら、様々な様式がごちゃまぜになった奇妙な建物だ。そこに、EU旗やベルギー国旗などの色鮮やかな旗が突きたてられていて、その異様な雰囲気をさらに増幅させている。

 市庁舎を過ぎてもう少し歩くと、時計台が顔を出し、コーレン広場に出る。ここでは、右手に聖ミカエル教会、左手に聖バーフス教会を見上げることができる。前者は工事中で近づくことができなかったが、後者はこの街に着いた日の夕方に堪能することができた。
 ここには、ファン・エイク兄弟の手になる「神秘の子羊と崇拝者たち」という祭壇画がある。友人から「ぜひ見ておけ」と言われていたものだが、これは確かに素晴らしかった。正直なところ、子羊が何のメタファーなのかは分からないのだが、子羊を取り囲む人々とその背景の描写が表情豊かで、そして非常に精緻。教会内にはレプリカが展示されていて、オリジナルは隅の部屋の中で修復中で、ガラス越しにその様子を見ることができる。名画の修復という緊張感あふれる現場そのものも、興味深かった。
 建物の中の子羊に思いを馳せながら広場を直進し、いつも水やスナックを買う土産物屋の横の通りへと入っていく。ここからはちょっと高級感の溢れるブティックやカフェが軒を連ねている。朝なので、ほとんどの店はシャッターを下ろしているが、朝食を食べさせるカフェやパン屋さんは常連さんですでに賑わっている。こういうのを見ると、ホテルでの朝食というのが、足枷に思えてしまう。もっとも、宿代に含まれているホテルでの朝食をもったいなくて投げつつことができない自分に問題があるのだが。それでも諦め切れずに、この日は一番混んでいたパン屋で見るからに美味そうなクロワッサンをおやつとして購入した。
 今朝は気持ちよく晴れているが、毎日そうだったわけではない。初日はひどい夕立に見舞われたし、小雨がぱらつく時もあった。けれども、この街は雨上がりのときが一番美しいのではないかと思っているので、それはそれで苦にならない。この通りにあるチョコレート屋で夕立の雨宿りをしていた時のこと。小一時間ほどで雨も上がってきたので、思い切って通りに出た。その時、通りの奥から自転車に跨った女性が現れ、そして瞬く間に過ぎ去っていった。その様子は、雨に濡れた石畳と相俟って、とても艶っぽかった。
 そんなことをぼんやり考えながら、通りを歩いて行く。ここから目的の場所までは真っ直ぐなので迷うことはない。途中、トラムの通った少し賑やかな通りを跨ぐ。ここを右手に曲がれば、お土産を買い込んだスパーマーケットに出るし、左に曲がればゲント公共図書館やデパートが立ち並ぶ広場へと出ることができる。ここ過ぎると、大学キャンパスが近くなってくるせいか、ファーストフードやレコード屋などがあって、通りの雰囲気も変わってくる。そう言えば、二日前に訪れたこのレコード屋の品揃えは素晴らしかった。用事を済ませてホテルに帰る途中―とは言っても、こちらの夏は日が長いのでまだまだ明るいのだが―に入ってみたのだが、地元ベルギーだけでなく、欧米ロックの名盤もずらりと並んでいて、学校帰りに毎週のようにアメリカ村の中古レコード屋をまわっていたことを思い出した。さすがに、昔のように大量に買い込んだりはしなかったけど。
 運河を渡って大学へと続いて行く坂道をしばらく登っていくと、目的地に着く。ここまで来ると、お揃いの名札をぶら下げた同業者も多く見かける。場合によっては、声をかけてくれる顔なじみもいたりする。ここで、散歩は終わり。
 ホテルからここまで、20分と少し。朝のささやかな街歩きは、この旅における私の最大の楽しみだった。