余儀なくされた野暮用 


 旅は、つまるところ「夢見た旅」と「余儀なくされた旅」の二つに分けられるという。
 前者は自分の意思での移動を伴うもので、大方の海外観光旅行は、バックパッカーのそれも含めてここに含まれる。一方、後者は自分の意思によらない移動を伴うもので、移民は逃亡といったシビアなものから、仕事や学会などの様々な所用を果たすためのものまで、多岐にわたる。今回、私がベネルクス(ただし、ルクセンブルクを除く。)に赴いたのも、まったく後者のそれである。
 確かに、ベネルクスに行こうと思ったこともないし、行く予定もなかった。けれども、行くことになった。となると、単なる移動で終わるのはつまらない。野暮用は野暮用としてきちんとこなすこととして、そこに旅の要素を見出すにはどうすべきか。
 野暮用、すなわち確定された事項群の間に不確定な事柄が起こりうる要素を盛り込み、そこに旅を見出す。それが私の考え方だ。
 例えば、私の今回の野暮用の主な目的地はベルギーのゲントだったのだが、フライトはアムステルダム往復にした。パリでもなく、或いはブリュッセルへの乗り継ぎでもなく、アムステルダム。時間にしても金額にしても、他の選択肢とそう変わるわけではない。けれども、私はアムステルダムでの二晩とゲントまでの移動に、より不確定な要素をより多く見出していたのだ(もちろん、本当にそうだったのかは分からないのだが)。さらに付け加えておくと、陸路移動においても、往路はブリュッセル経由にして、復路はアントワープ経由にした。
 むろん、去年のヘルシンキでの野暮用のように街から街への移動を殆ど伴わないものものもあるだろう。その場合は、ホテルを一人早く出る、仕事が終わった後に真っ直ぐにホテルに戻らないなどの不確定要素を細かく盛り込んでいくしかない(他にも、敢えてホテルを予約せずに旅立つというのも考えられるが、残念ながら今の私にはそこまでの力量はない)。

 例えば、スキポール空港からアムステルダム市内に抜けるために鉄道に乗るときに、券売機の使い方が分からずに途方に暮れて辺りを見渡すとき。アムステルダム中央駅から予約していたホテルまで歩く途中に道を尋ねたら、相手も観光客で何も情報が得られなかったとき。薄暮のダム広場で人を待ちながら大道芸を眺めていたとき。妖しげな雰囲気満載のアムステルダムの夜の路地を通り抜けたとき。
 あるいは、ゲントへ向かう列車で隣になったイタリア人ビジネスマンとノリだけで会話した気になっているとき。どこまでも広がる田園風景と編隊を組んで流れるでっかい雲が車窓を流れて行ったとき。ゲント駅から近いと思っていたホテルが意外に遠くて1時間近く歩く羽目になったとき。駅でサンドイッチを素早く口に押し込んで乗換の列車に飛び乗ったとき。
 はたまた、土砂降りので店の軒先で立ち尽くしたとき。雨上がりの肌寒い早朝のゲントの石畳の路地を歩いたとき。薄暗い教会の一角に佇む宗教画を見上げたとき。ホテルへ戻る前にマルクト沿いのカフェでビールを一杯ひっかけたとき。クリームをたっぷり載せた焼きたてのワッフルを歩きながら頬張ったとき。
 そして、ローカル列車に間違えて乗ってしまって時間が思った以上にかかってしまったとき。来るはずの列車が一時間ほど遅れてホームでばんやりと駅の天井を見上げたとき。アムステルダム行の列車が車両故障ロッテルダムで乗換ることになったとき。さびれた中華レストランでビーフンを食べたとき。狭いホテルでノートパソコンに独り向かっていたとき。

 こういった些細な場面に野暮用を超えた<何か>を見出すしかないのが余儀ない旅であり、またそれらを楽しめることが野暮用の醍醐味と言えるだろう。
 そして、野暮用には一人旅と決定的に違う要素が、もう一つある。それは、装備だ。
 一人旅のときは、たいてい30リットル未満のバックパックを担いでアウトドアまがいの服装だが、野暮用の場合はそうもいかない。ビジネス用のスーツケースに背広用の鞄を括り付け、腕時計も良いのをつける。携帯電話やノートパソコンもお必需品だ。仮にも日本を代表してその場に臨む(気概だけは、という意味で)以上、下手な格好をして笑い者にはされたくないという感覚がどこかにあるのだろうし、そもそも仕事を持っていくのでそれなりの環境を整えなければならない。
 いろいろと書き連ねてみたものの、私の海外野暮用経験は今回を含めてもたったの二度。しかもヨーロッパのみだ。回を重ねるごとに洗練されていくだろうし、ヨーロッパ以外でのでのやり方、あるいは年齢に応じたやり方などもあるだろう。これから先、何度こういう機会があるかは分からないが、ただただ精進あるのみだ。