トリウンドにて


 その日は、いつもより念入りに靴ひもを結び、少し早めにホテルを出た。
 猿が我が物顔で闊歩する街の北側の坂を通り抜け、ダラムコット村の脇を通り過ぎ、うねる山道を登っていった。途中、四叉路があったので、左に進んだが、途中で道がなくなった。右の道を進むと、下りになってトリウンドから離れる気がした。だから、真ん中の道を進んだ。道は山肌を蛇行しながら、遥かに仰ぐ白い山嶺の手前の緑の斜面へと続いていた。それがトリウンドらしかった。歩みのスピードを上げたが、道に迷って余分な体力を使いすぎていたことと、朝食を抜いていたことが誤算だった。普段の山歩きでは考えられないほど体力を消耗してしまっていた。這いつくばりそうになりながら一段一段登っていった。妙に意固地になって、峠のチャイ屋にも立ち寄らなかった。顔を上げると、緑の稜線に男が一人、立っていた。
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 ガキのころからこの小屋でチャイを売ってるから、もう25年になる。ダラムコットの生まれだ。もちろん家族はまだ住んでるよ。まったくの一人ってわけじゃないからな。裏手のロッジで働いてるやつらはツレだし、それに犬もいるし。結婚?できるわけないだろ。こんなところで商売したって、ろくに金も貯まらねぇよ。
 夏はダラムサラから登ってくるやつも結構いるからそれなりに忙しいんだけど、この時期はダメだな。天気が好い日でも2,3人も来ればいい方さ。
 でも今日みたいな陽気だと暇なのもいいね。マットを引っ張り出してその上に寝っ転がって、ぼんやりヒマラヤと空を眺めるんだ。気持ちいいぜ。そういや、お前さんがアゴを突き出してぜいぜいいいながら登ってくるのも、よく見えたよ。でも夜になったら真っ暗で、遠くにダラムサラの街明かりが見えるだけだ。もう慣れたから寂しくもないけどな。
 なんだ、もう帰るのか。スノーラインまで行かないのか?そうか、また来年来いよ。パンケーキの皿とコップはそこに置いたままでいいぜ。俺は引き続き昼寝だよ。
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 下りは、少し足早に駆けた。快調に飛ばしていたが、30分ほどのところで浮いた木の根に足を取られて、前のめりに転んだ。手首に巻いていた、ラサで買ったトルコ石を模した数珠が飛び散った。脛をしたたかに打ったらしく、足が少ししびれていた。それでもスピードを落とさずに駆けた。スピードをコントロールしきれずに曲がり角の岩に左手をついた。その瞬間、手が痺れた。細かい棘を持った草が絡まっていて、それが原因だった。しかし、意地でもスピードを落とさなかった。気づけば、来た道とは違う道を下りていた。小さな穴倉のようなゴンパの尼僧に、通りすがりの羊飼いの老夫婦に道を尋ねた。
 どうにかマクロードガンジに辿りついた。こんな日はホテルのベランダでビールでも飲むに限る。