南条文雄・高楠順次郎 『仏領印度支那』 東京, 文明堂, 明治36(1903)年, 185p.
日本の東洋学における明治という時代は、欧米の東洋学と従来の漢学の素養をベースにした独自の東洋学を構築し、世界の東洋学界に地位を築こうとしていた時期だったと言えるだろう。本書は、そんな明治の35年にベトナム(フランス領インドシナ)のハノイで開催された万国東洋学会に出席した南条文雄(1849-1927、帝国東洋学会代表)高楠順次郎(1866-1945、東京帝大代表)が、その際の旅行記や彼の地に関する論考数編を収録したもの(日本からは、他に藤島了穏も参加)。
ここでは、旅行記部分に当たる「南征記」に注目してみたい。この部分は、元々は高楠の「南征記」と南条の「南征日記」というそれぞれの旅行記を合体させ、これに帰国後に行った講演などの内容を付け加えているが、随所に各地の碑文の録文を掲載したり、関係する地方志を抜き出したりしているところは、東洋学者ならではだろう。
一行は10月6日にドイツからの参加者とともに横浜を発ち、10日に上海、16日に香港、17日に広東と経て、26日にハノイに到着した(ハノイでは、折から開催されていたハノイ万国博覧会も見学している)。参加者は、日本のほか、ドイツ・オーストリア・アメリカ・フランス・オランダ・イタリア・フィンランド・ノルウェーといった列強諸国の本国ばかりでなく、スリランカ・マダガスカル・中国・タイそれぞれの植民地(ないし出先)などから合計100名に登ったが、非白人の参加は日本だけである。
大会は12月3日から9日にかけて行われた。ここでは、南条が8日の総会において「法華経三訳比較の結果、梵本校定の終結(フィノー氏評論)」と題する講演を行っている。詳しく調べていないが、法華経の日本語訳を行った南条が、英仏訳との比較を試みた内容になっていると思われる。
ところで、19世紀になって欧米諸国が東・東南アジアにより進出するようになると、それに伴いこれらの地域を対象とした東洋学も著しい発展を見せた。その中心にあった国の一つがフランスであり、更にその中心にあったのが当時ハノイにあったフランス極東学院(1901年にサイゴンから移転)である。ここは、世界でも有数の専門図書館を有していたほか、ポール・ぺリオ(1878-1945)など気鋭の東洋学者が奉職し、東洋学の一大研究センターとなっていた。ちなみに、ペリオ自身もこの学会では書記を務め、「新たに得たる支那書籍について」という発表を行ったが、これは義和団事件の混乱のさなかに北京で購入した漢籍の紹介をしたものだろう。