ラサにて(9)


 「そろそろラサも潮時だな」と思った。
 犬にかまれたジェニスは、ラサ市内の病院で診てもらって大事に至らなかったが、念のために飛行機で北京に戻ることになった。仕事を辞めてきた旅を途中で切り上げなくてはならない彼女の胸中はなかなか読めなかったけど、吹っ切れたような笑顔で、ランドクルーザーのツアーをキャンセルすると言った。こうして、メンバーはローレン・ジェームズ・フランク・ヨウコさん・リュウ、そして俺の6人になった。
 そんなときである。
 いつものように朝の散歩と朝食を終えてからインターネットカフェでネットサーフィンをしていると、「ネパールで内戦勃発」というニュースが目に飛び込んできた。メールボックスを開けると、「ネパールが大変だけど大丈夫?」と安否を気遣う友人のメールも入っていた。
 僕は思わず腰を浮かして声を上げてしまった。共産党過激派(マオイスト)によって、東部の空港など各地の政府側の拠点が襲撃され、カトマンズにも戒厳令が布かれたという。半年前の当時の皇太子による王族殺害事件以来ネパールの情勢は不安定だとは聞いていたが、こういう形で自分の旅に関わってくるとは考えていなかった。そう言えば、昨日立ち寄った土産屋のマスターが「ネパールでは気をつけな」と言われたのを聞き流していたが、こういうことだったのだ。
 慌ててネットカフェを飛び出して流しのタクシーに乗り、ネパール領事館に向かった。さぞかし混乱しているだろうと思っていたのだが、着いてみるといつもどおり小さな窓口に殺到する人民を横目に、ネパーリー役人が優雅に仕事をこなしていた。タクシー代の10元が無駄に終わりそうな嫌な予感を抱えながら、たまたま出てきた階級の高そうなおっさんをつかまえて尋ねてみた。
「内戦が起きたって聞いたんだけど、ネパールは大丈夫なのか?」
 そうしたらおっさんは、面倒くさそうに予想通りの一言を返してきた。「No Problem ! (問題ない)」
 俺は、ホッとしたの半分、10元損してむかついたの半分、釈然としないまま30分の道のりを歩いて帰った。とは言え、せっかくの情報だし一応リュウには伝えとこうかと思ってキレー・ホテルに入ると、フランクがホテルのバルコニーに足を上げて本を読んでいた。俺は、腹いせにちょっとは驚かせてやろうと思いながら声をかけた。
「よぉ、フランク。聞いたか?ネパールで内戦だってさ」
「あ、そうかい。まぁでも大丈夫だろ。観光で成り立ってる国が観光客を入れないなんてないよ」
 フランクは、いつものようにヘラヘラしながらこともなげにこう言った。確かに、内戦とは言っても、一部の政府拠点が武装ゲリラに襲撃されただけである。とは言え、この状況でこの冷静な判断はなかなかできない。「フランクの奴、できるかもしれん」と俺は密かに思った。

 結局、ネパール内戦騒動は俺の独り相撲であっさり幕を閉じ、ラサを出る準備は着々と進んでいった。
 ラサからギャンツェ、シガツェ、ティンリー(チョモランマ・ベースキャンプ)と通り抜ける5日の旅ということで、それなりの準備を揃える必要がある。俺も時間を見つけては、ミネラルウォーターやフィルム、サングラス、お菓子などを買い込んだ。
 そして夕方、再びキレー・ホテルに向かった。エージェントであるデビッドと最後のミーティングを持つのだ。1度目はルートと値段の確認、2度目はランドクルーザーと契約書の確認、そして今回が3度目である。
 客である俺たち6人は集まったのに、肝心のデビッドがなかなか来ない。1時間も過ぎると、最初は駄弁っていたリュウや俺が真っ先にイライラして悪態をつきだした。実は、打ち合わせの度に必ず待たされていたのだ。もしかしたら、ここまで入念に事前チェックや打ち合わせをかけるグループは多くなかったのかもしれないが。
 そうしてフラストレーションを溜め込み、1時間半遅れでデビッドが悪人面に薄ら笑いを浮かべながら登場したところで、リュウと俺は切れてしまった。
「おまえ、何考えてるんだ!?いい加減にしろよな!」
 かなりけんか腰で詰め寄る俺たちとややムッとした表情のデビッドの間に、フランクがヘラヘラと「まぁまぁ」とか何とか言いながらしながら割り込んできた。そして、次の一言に、俺は改めて「フランクの奴、できる」と思ったのであった。
「1時間半遅れてさぁ、俺たちずっと待たされたわけだけど、100元負けてくれるなら許してやるよ」
 デビッドもさすがに形勢不利と見たのか、あっさりその条件を飲んだ。一人頭に換算すれば20元かそこらの金額だが、やはりこういう交渉ごとにおいては怒った方が負けなのだ。
 ともあれ、こうしてラサを出る準備は整った。
 ミーティングを終えたその足で、リュウとジェニス、そして前日の鳥葬ツアーで一緒になったナガイ君とトミさんたちと連れ立って、ラサ最後の晩餐に向かった。店はラサ最初の夜にリュウと来た江竜飯店で、メニューはいつもどおりにビールとモモ。どんなことを話したのか覚えていないけれど、店員さんたちと記念撮影したりしていたので、それなりに楽しんでいたんだと思う。

 ラサ・ビールにほろ酔い気分になって、ジャガイモの串揚げをつまみながらリュウと二人でヤク・ホテルに戻ると、部屋では「あの男」が待っていた。