ラサにて(8)


 ラサに到着して1週間も経とうとした頃気温がぐっと下がりだした。遠くに望む山々も少しずつ雪化粧をするようになっていた。
 冬の足音が少しずつ大きくなってきたある日、ヤク・ホテルの隣部屋のツイスト・ヘアーのリョウが、相棒の丸刈り眼鏡のマサと鳥葬ツアーの参加者を募集し始めた。ラサに着いた日にリュウから事細かに鳥葬の際の死体の前処理や、ハゲワシの食いっぷりを聞かされていた俺も興味がなくはなかったが、観光気分でそういった場に行くのは不遜なような気がしていた。そんなわけで、当初はこのツアーを見なかったことにしようと思っていたのだが、結局は行くことになってしまった。
 ホテルの中庭でいつものようにデッキベンチに寝そべっていたリョウが、俺が通りかかったときにむっくりと身体を起こし、「せっかくやし、どう?」と直接声をかけてきたのだ。隣で聞いていたリュウも「行っておいて損はない」と畳みかける。「他人の勧誘」という責任転嫁の対象が生まれると、後ろめたさよりも好奇心の方が勝ってくるのだ。
 参加者は、リョウとマサの二人に、ダレイのツアーを一緒にドタキャンしたイスラエル人夫婦、ウチダ君、ジェニス、新しくラサにやってきたナガイ君にトミさん、そして俺と、何やかんやで総勢13名になった。ツアーは2日後の夜中にランドクルーザーで出発し、早朝から行われる鳥葬の儀式を見学して、昼前にはラサに戻ってくるという。ツアーのアレンジは、ダレイのツアーも担当していた"デビッド"と名乗る見るからに悪人面のチベタンのエージェント。

 そして、ツアー当日の夜中1時半。漆黒の闇には、蒼白な満月だけが浮かんでいた。
 3時間ほどの仮眠を取ってから、ホテルの前に集まった俺たちは、まずはその車に驚いた。ランドクルーザーのはずが、そこには普通の路線バスが止まっていたのだ。13人もの人数をさばくために、ランドクルーザー2台ではなく大型バス1台を用意したDavidのこの判断が、良くない結果を生むのだがこの時はまだ分からない。俺たちは何の気もなしにバスに乗り込んだ。
 ラサを出ると、車は暗闇の中を走る。寝ているのか、これから目にするであろう光景を想像してか、誰も口を開かない。沈黙と月光と、ジェニスのウォークマンから漏れ聞こえるBOYZ ? MENだけがバスの空間を支配している。
 2時間ほど走ったところで、バスが止まった。ぬかるみにはまったらしい。運転手が俺たちに声をかける。
「男は後ろから押してくれ!」
 バスを降りてバスの後ろに回り込む。小さな集落を通り抜ける路地のぬかるみで、不似合いなまでに大きなバスの後輪が空しく回転していた。声をかけてバスを押し上げる。エンジンが唸る。俺はこの時初めて、Davidの悪人面に怒りを覚えた。
 明け方、バスはとある寺院の前に泊まった。何という寺だったのか、名前を聞き忘れてしまったので分からないが、ラサから北へ4時間ほど行ったと思う。大きな渓谷の谷あいにある結構大きな寺だった。
 バスを降りたところで運転手が手振りを交えながら言う。
「儀式の場では、カメラは絶対駄目だ。右手を切られるぞ。それに、余計な口をきくんじゃないぞ…」
 山門の側の東屋で、寺男の差し出すチャイで身体を温めてから、まだ夢の中にいる犬の間をすり抜けて、運転手の先導で寺の背後の山を登っていく。高度がラサより相当高いらしく、すぐに息が切れた。ラサではお目にかかれない突き抜けたような青空を見上げると、ハゲワシが大きな弧を描いていた。
 山を登りきったところはちょっとした平地になっていて、その一角が鉄柵の中に囲われている。ここが鳥葬を執り行う場だ。
 談笑しながら出刃包丁を研ぐ僧侶。お手伝いをして小遣い稼ぎをしようとする近所の少女たち。沈痛な面持ちを浮かべて佇んでいる遺族。ずた袋に入った遺体―今日は4体だった―。いつの間にか舞い降りて、マラソンのスタートのときのように前のめりのハゲワシたち。俺たち鉄柵の中に入ったところでプレイヤーはすべてそろった。
 僧侶がフックにひっかけて死体を引っ張り出し、足の裏から包丁を入れる。骨は木槌でつぶしてミンチにした。最初の死体は少女だった。次の死体は太った僧侶だった。あとの二人は老人だった。「それら」は手際よく解体され、フライング気味に駆けてきたハゲワシの胃袋に収まっていった。鳥葬という死体処理の方法が、チベットという、仏教の思想が人々の心に根付き、そして燃料すら貴重な環境においては、合理的なものなのだろう。
 最後に、誰かのシャレコウベがハゲワシに蹴られて、ヤクがゆっくり草を食む山の斜面をコロコロと転がっていた。

 こうして儀式は終わった。プレイヤーたちは、何事もなかったかのようにもと来た道を引き返して行った。ハゲワシも大空に還って再び大きく旋回していた。けれども、例外なくちょっと野次馬的な好奇心をもってこの場に臨んだ俺たち観光客だけは、放心気味に来た道を降りた。その時、一足先に降りていた運転手が血相を変えて走ってきた。
「大変だ!韓国人の女の子が犬にかまれた」
 急いで近くの病院で簡単な手当はしてもらったが、幸い怪我は大したことはなかった。けれども、狂犬病が怖い。田舎の病院には、血清はないということだった。ジェニスはショックでずっと泣いていた。
 ラサへ戻る4時間のバスの中では、誰も口をきかなかった。ホテルに戻って熱いシャワーを浴びて初めて、現実に戻ってきたような気がした。