外務省通商局『濠洲「タウンスビル」及「シドニ−」事情摘要』

外務省通商局 『濠洲「タウンスビル」及「シドニ−」事情摘要』 東京, 外務省通商局第二課, 明治27(1895)年, 28p.

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オーストラリアに日本人が渡るようになったのも明治時代のことらしい。1870年代頃から、真珠採り潜水夫やさとうきび農家、労働者、(そして数は少ないが)貿易商、医者などの様々な職種の人々がシドニーをはじめとする沿岸に近い都市を中心に移住していた。その後、日本はオーストラリアから石炭や羊毛を輸入するようになり、日本における南進論の高まりと歩調を合わせるように、貿易相手としても重要になっていく。
本書は、外務省通商局がオーストラリア東海岸のタウンズヒルシドニーの二つの都市の、人口や商況、気候などをまとめた小冊子である。この本の面白いところは、附録としてつけられている「帝国領事館設立請願書」だろう。これは、クイーンズランド近海の木曜島への領事館設置を求めるもので、「クイーンズランドにも多くの日本人が移住している」「しかし、白人に虐げられ大変苦労している」「メルボルンに領事館はあるがここからは遠い」「ニューギニアも近く、オーストラリアへの北の玄関口として交通の要衝に当たる」ということで、同島に住む180人の日本人住人の総代として、長野県出身の松岡好一という人物が、外務大臣陸奥宗光宛に提出したもの。これによれば、当時、木曜島にいた日本人は「潜水師現員五拾人、水夫及網持現員三百五拾人、料理人及小使三拾人」ということだったらしい。結局、この請願の甲斐があったのかどうか微妙なところだが、2年後の1897年にシドニーに領事館が設置された。
ところで、この松岡好一という人物について、気になることがある。明治24年9月20日から25年4月10日まで、練習艦『比叡』で行われた海軍兵学校の遠洋航海の記録である『航南私記』(広瀬武夫遺著, 松平直亮校, 東京, 松平直亮, 1905年)12月29日のシドニー出航の際の記録に、

出帆ニ際シ分隊点検人員ヲ調フ便乗者松岡好一昨夜来上陸帰艦セス総員三百六十一人茲ニ一人ヲ欠ク

とあるが、この意図的に姿をくらました気配もある「松岡好一」なる人物(政教社メンバー)は、この2年後の木曜島の松岡好一と同一人物だろうか?