ラサにて(5)


 チベットからネパールに抜けようとする場合、どういう手段を取ればよいか。
 夏場はツーリスト・バスなんかも出ているらしいのだが、旅行者が激減し、道路事情が悪くなる冬場は、ランドクルーザーをチャーターするしなかい。そして、そのチャーター代金は往々にしてバックパッカーにはとても手が出ない額だったりするので、何人か同類を集めて一台の車をシェアするしかない。
 そのため、ホテルやゲストハウスの伝言板には、「行方不明旅行者」の貼り紙と並んで、「ランドクルーザーのシェアメイト募集」のメモもたくさん張り出されている。こういうメモには、「大まかな出発の日程」、「国境までのルート(立ち寄る街など)」、「募集人数」、「本人の名前と滞在ホテル名」といった事柄が書きなぐられている。ネパールに下りようとする者は、自分でこれを張り出すか、張り出されたメモから適当に選んで、道連れを探すのだ。
 もちろん俺も、その一人。ラサに着いた2日後には、リュウと二人で張り出されたメモをチェックしてまわっていた。そんな中、一つのメモが目に留まった。リュウと同じキレー・ホテルに泊まっているダレイというアメリカ人のシェア・メイト募集の貼り紙だった。
 チョモランマのベースキャンプに立ち寄ってからネパール国境の街ジャンムーに向かうポピュラーなルートで、出発は3日後だという。何となく旅を焦っていた俺と、一週間ほどラサにいてちょっと飽きていたリュウの2人は、「興味あり」のメモをダレイの部屋のドアにはさんでおいた。
 その日の夕方―悪いチベタン・升氏との一回目の会食の前のことだ―、リュウと俺の部屋で話をしていたところ、そのダレイがやって来た。ダレイとは初対面だと思っていたが、見覚えのある顔だった。キレー・ホテルのベランダで韓国人の女旅行者を侍らせて、下手なギターの弾き語りをやっていた奴で、神経質そうな喋りが何かと耳に障ったのでよく覚えていたのだ。「明日の18時、ペントック・ゲストハウスでミーティングをやるから来てくれ」とだけ言い残して、ダレイは帰っていった。
 一応補足しておくと、ネパールに入るにはビザが必要だ。ビザは、ラサ市内の西はずれにあるネパール領事館でとることができる。一日目の午前に申請し、翌日の午前に受け取るのだが、俺もこの日に朝からネパール領事館まで1時間近くかけて歩いて行って、群衆を押しのけかき分け、何とか申請を済ませていた。
 さて翌日の夕方、ダレイの指定した場所にリュウと向かうと、そこには件のダレイとダレイが侍らせている韓国人の女が2人に、イスラエル人の夫婦という何とも奇妙な取り合わせの面々が待っていた。出発は2日後なので、メンバーの顔合わせや車の確認などが主な目的だったのだが、このミーティングが揉めた。
 もともとダレイとリュウの折り合いは良くはなかったのだが、ダレイの神経質で嫌味タップリの喋り方もさることながら、その独断専行気味の話の進め方が、何でも自分で納得しないと気が済まないリュウの神経を逆撫でしまっくったらしい。ルートを決めるのに揉め、車をチェックするのに揉めで、参加者のイライラが募るだけでミーティングは終わってしまったのだ。
 この時は、どうにかこうにか話は落ち着いて、「じゃあ明後日に」ということで別れることになったのだが、せっかくのネパールへの旅路に雷雲が立ち込めてきたのだった。
 この後、俺とリュウは前出の升氏との二度目の会食に向かったのだが、正直なところ、このままダレイたちとネパールまで行くべきかどうか相当悩んでいた。ダレイがいるだけで明らかにこのツアーから抜ける十分な条件になるのだが、さすがに土壇場に来てのキャンセルは人としていかがなものだろうか。とは言え、一人で考えてもなかなか答えが出ない。升氏の自慢トークを上の空で聞き流しながら、俺は一人で悶々としていた。
 食事中に抜けて入ったトイレでリュウと一緒になったとき、「悪いけど、ぶっちゃけ、俺やめたい」とリュウが切り出した。こうなると、俺としても「実は俺も・・・」と応じることになる。渡りに船というやつだ。
 これで話は決まった。
 俺たちは、クラブに行こうという升氏に別れを告げ、意を決してダレイの部屋の扉をノックした。気が重かったが、これは人として踏まなければいけないステップなのだ、と自分に言い聞かせて。が、幸か不幸かダレイは不在だったので、「ごめん、やっぱりツアーやめるわ」というメモだけ扉に挟んでホテルに戻った。
 翌日、ヤク・ホテルの部屋でリュウやハッカクたちと喋っていたら、ダレイが血相を変えて怒鳴り込んできた。そりゃ怒りもするだろう。
「昨日は行くって言ってたじゃないか。イスラエル人の夫婦もやめるっていってたし、これじゃあ車のチャーターはできなくなる。どうしてくれるんだ!」
 イスラエル人の夫婦がやめたというのは初耳だったが、その原因も簡単に察しがつく。おまえのせいだよ、という言葉はぐっと飲み込んで、二人で謝った。
「すまなかった。でも決めたことだから」
こういう時は二人だと本当に心強い。ダレイは散々文句を言った挙句、俺には聞き取れない捨て台詞を残して帰っていったが、たぶんあまり上品でない罵り言葉だったのだろう。
 そういうわけで、ダレイは翌日以降もホテルのバルコニーで下手なギターをかき鳴らし、俺たちはダレイに会うたびに嫌味を言われることになった。そしてその度に、俺とリュウは「すまなかった」と謝った。何でチベットまで来て、しょうもない人間関係に気を遣ったり悩んだりしなければならんのだろうか。
 しかし、その数日後にはダレイもいなくなった。他の旅行者に聞いたところでは、侍らせていた韓国人の女の子にも先にネパールに行かれてしまい、一人で里帰りするネパーリーのランドクルーザーに乗り込んでいったらしい。