ラサへ


 夜になった。
 暗くなるとチェックポストの監視が緩くなるからか、バスは止まらずに暗闇の中を走り続けた。気温はぐんぐん下がってくる。毛布を頭からかぶってひたすら堪える。真っ暗な車内を時々照らすような対向車もない。ひたすら漆黒の闇の中を、頼りないヘッドライトだけで―

 眠っていたらしい。気づくと、バスは何かの建物の前で止まったようだった。ヤンたちはバスを降りて、建物の中へと入っていった。食事だろうか。うとうととしていた俺は、ヤンたちを追いかけなかったために、一人車内に残ることになった。
 エンジンが止まり、人気の無くなった車内の気温は、ぐんぐん下がっていった。枕元に置いてあったペットボトルの水も、気づけば凍っていた。おまけに、高山病の症状も出てきた。頭痛だ。ゴルムドで買った薬も酸素ボンベも、本当に気休めにしかならなかった。降ってきそうなくらいに眩いチベットの星空の下、俺は一人、寝台バスでのたうちまわった。
 明け方、おっさんが戻ってきた。「朝飯だ」
 頭痛と眠気で朦朧としたまま中へ入った建物の中は、オンドルのおかげで本当に暖かかった。建物は、回族のトラックやバスの運転手たちのための食堂兼仮眠所のようだった。仮眠スペースで、ヤンたちは朝飯を食べ散らかして、すっかりくつろいでいた。むかついたが、それどころではない。
「高山病で頭が痛い。何とかならないか?」
ヤンたちは顔を見合わせて困った顔をした。特に何も持っていないらしい。そう言えば、昨日の夕方にワンが頭が痛いとか呻いていたが、誰もケアしていなかった。
 見かねたのか、店の主人が奥から出てきた。小汚いエプロンから白い錠剤を取り出し、お湯を注いだコップと一緒に差し出した。
「これを飲んで寝な」
 こうして俺は、朝飯を食べることなく、再び極寒のバスに送り返された。そして今度は、程なく眠りに落ちた―

 目が覚めると、頭痛は嘘のように消えていた。バスは朝の光に照らされた高原の中を走っていた。
 昨日まで流れていた川は凍結している。草原を行く牛は、毛の長いヤク牛だ。家財道具を積んだリヤカーを家族に引かせて、一心不乱に五体投地でラサを目指す巡礼者も増えた。いよいよチベットに入ったのだ。
 その後、幾つかの検問や街を走り抜けて、陽も傾いた頃、小さな集落にある回族レストランに入った。ラサまであと数時間のところでの宴は、これまでの緊張感溢れる道中と打って変わって、さながら「打ち上げ」のようなリラックスした雰囲気だった。
 「これまで大変だったなぁ」「寒かったし、高山病もきつかったしな」「あの検問のときはドキドキしたよな」
 恐らくお互いに半分も理解できていなかったと思うが、道のりの厳しさを共有してきたことで、妙な仲間意識のようなものが生まれていた。彼らにとっては、俺は所詮は客かもしれないが、少なくとも俺はそう思っていた。さすがに酒こそ飲まなかったが、ゲラゲラ笑いながら俺たちは用意された豪勢な羊料理をしこたま平らげた。

 ラサに近づくと、道も一気に整備されるようになった。おんぼろバスも快調に進む。これでもう、客である俺がエンジンを冷やす水をかけ続ける「手動ラジエーター」の役目を果たす必要もない。
 ゴルムドを出て二日目の夜10時半。ヤンの「着いたぞ。降りてくれ」という声は、再び緊張感溢れるものになっていた。
 暗くてよく分からないが、閑散とした広バスターミナルのようだった。そう言えばラサの東には長距離バスターミナルがあったな、と僕はガイドブックの地図を思い出していた。
「見つかるとまずい。さっさとあのホテルに入れ」
 ヤンがそう言って指差したのは、駅やターミナルの側には必ずある交通賓館(ホテル)。明らかに設備は悪そうな感じだったので、俺は首を横に振った。
「ヤク・ホテル(亜賓館)に行きたい。連れていってくれ」
 特にこだわりははなかったのだったが、町外れのボロいホテルよりも、市内のバックパッカーの多そうなゲストハウスの方が、何かと都合がいいと思って、俺は唯一覚えていたゲストハウスの名前を出した。
 ヤンは「困ったな」という表情を浮かべ、3人で相談した。やがて、腹を決めたらしい。通りかかったタクシーを止めて、俺をそこに押し込んで、運転手に10元を押し付けてからこういった。
「こいつをヤク・ホテルまで連れて行ってくれ。じゃあな、兄さん」
 ろくに別れを言う間もなく、扉は外から閉められ、車は漆黒のラサの中心へと走り出した。やっぱり俺は客でしかなかったらしい。