ゴルムドを出発


 昼を少し過ぎた頃、タクシーに乗せられて、街外れの貨物用と思しきターミナルに連れいかれた。人影は、ない。
てっきり、何人かの旅行者と一緒にラサまで連れて行かれると思っていたのに、どうやら客は俺一人らしい。
「このバスだよ。先に乗って少し待っていてくれ」
先ほどの若者がそう言って、俺を右の一番前の下鋪(ベッド)に座らせ、バックパックを大豆の袋の奥のベッドの下に押し込むと、他の2人の男たちと一緒に袋詰めされた大豆をバスの後部から詰め込みだした。
どうやら、このロートル寝台バスは、今では貨物バスとして使われているようだ。そして、今回は旅行者も運ぶ闇バスとなったわけだ。

 13時、バスは静かに出発した。
 乗っているのは、俺の他に例の若者―ヤンといった―と、2人の男。1人は若く、あまりこの仕事に慣れているように見えないが、少し軽そうな人懐っこい笑顔をいつも浮かべている。名前はマ。もう1人は、名前は忘れてしまったけれども、無口な中年男だった。
バスが動き出したので、カーテンを少し上げて窓の外を覗こうとしたところ、
「だめだ!公安に見つかったらどうするんだ!?」
とヤンに厳しい顔で制された。
「いいか、これから街を走っているときはカーテンを絶対に開けるんじゃないぞ。毛布に全身くるまっているんだ。これから、検問とかもあるんだから注意するんだぞ!」
ヤンのいつもより厳しい表情に、俺も少しのまれてしまい、大人しくカーテンを閉めた。闇バスに乗るということは、そういうことなのだ。このバスに乗っている間は、つまりラサに着くまでは、俺は大手を振って街を歩ける旅行者ではないのだ。
 不安がないと言えば嘘になる、というより、むしろ不安だらけだった。公安に見つかったらどうなるのだろうか、高山病になったら誰が助けてくれるのだろうか、この3人に身ぐるみを剥がれたらどうしようか、と考えても仕方ないことが、頭の中に去来する。
 ただ、心のどこかで、“アウトロー”となった自分を心地よく感じていたのは確かだ。

 ゴルムドを出ると、チャンタン高原を通り抜けるこのルートは、ひたすらチベット高原を登っていく。
 高度が上がるに従って、段々陽射しが厳しくなる。そのせいか、あまり寒さは感じられない。もう冬が近いので、チャンタン高原は黄金色の絨毯をしきつめたようになっており、そこをエメラルドグリーンの河が流れている。垢で真っ黒のカーテンの隙間の外に広がる雄大な景色に、俺は心を奪われていた。
 しかし、バスのエンジンの調子はいかにも頼りなかった。上り坂に差し掛かると途端に時速30キロくらいにまでスピードが落ちてしまい、まるで老人がぜいぜい喘ぎながら杖をつき坂を上るような情けない有様である。坂道で何十人もの巡礼者を乗せた巡礼トラックに抜かれたときには、これから走破する千数百キロを思うと、さすがに気が重くなった。
 たまらず「本当にこんなバスでラサまで行けるのか?」と、俺は何度かヤンに今さらどうしようもない質問をぶつけた。結局は、ヤンの「大丈夫大丈夫。明日の晩には着くからさ。」という言葉に自分を納得させるしかなかったのだったが。
 それでも、バスは進んでいく。遥か彼方のラサに向かって五体投地しながら歩みを進める巡礼者に比べると、格段に早いスピードで。

 ところで、青蔵公路には、要所要所にチェックポストが置かれている。チェックポストには解放軍の兵士が詰めていて、行き交う車両をチェックするのだ。もちろん、街の出入り口にチェックポストがある場合もある。
 チェックポストに人がいなければどうと言うことはないのだが、公安や解放軍が真面目に勤務している場合には、そうはいかない。「どうする?」と俺はヤンに尋ねた。
「いなくなるまで待つさ」
ヤンは事も無げに答えたけれど、俺は内心絶句したものだ。
 そして、本当に2時間待った。
 チェックポストの手前の山影に隠れ、反対側からやって来るトラックを捕まえて、情報を集める。そして、「休憩中」ともなれば、一気呵成にチェックポストを、そして街を駆け抜けるのだ。
 とは言え、この手は毎度使えるわけではない。やはり避けられないチェックもあるのだ。何処の街だったかは分からないが、今回は避けられないと覚悟したヤンが、俺の頭の上から毛布をスッポリ被せてこう言った。
「いいか、お前は夜通し運転したから寝ているドライバーだ。解放軍が乗り込んでくるけど絶対に顔を出すなよ!好(ハオ)?」
「ハ、ハオ・・・」
 そうしているうちにチェックポストにつき、本当に解放軍の兵士が乗り込んできた。毛布越しに人影が動いているのが見えて、人生で最もスリリングなかくれんぼに、俺の心臓は高鳴っていた。
「誰だ、この寝ているやつは?」と兵士の一人が言い出した。嫌な予感がした。
「運転手ですよ。夜通し運転していたから寝てるんだ。起こさないでやってください。」とヤンが軽やかにシラを切った。
 しかし、次の瞬間、兵士の手がこちらに伸びてくるのが目に入った。もちろん、毛布越しに。「マジかよ」と思ったが、もう腹を括るしかない。それに、その時俺は人民解放軍の払い下げコートを着ていた。何とかなるかもしれない・・・。そして、一気に毛布が剥ぎ取られた。
俺は、世界中の不機嫌を集めたかのような寝起きの顔を作り―おまけに頭はもともとボサボサなのだ―、そして一言。
「シェンマ?(何だ?)」
兵士はちょっとびっくりしたように俺を眺めていたが、ヤンがすぐさま毛布を被せながら言った。
「言ったでしょ?寝てるって・・・」
あの胡散臭い演技で納得したのかどうかは分からないが、それ以上は俺の毛布に突っ込みが入ることはなかった。ただ、その後の旅でもよくチベット人と見間違えられることがあったことだけ付け加えておこう。