ゴルムドへ


 西蔵に行ってみようかなと思った。

 身動きがとれないというのはこういう状況のことをいうのだろうか。俺は、カシュガルの華僑賓館の一室で、一人頭を抱えていた。
 ウルムチでは、カザフスタンどころか、新疆北部のイリ地方にすら入ることができなかった。長距離バスの切符売り場で、「外国人はこの地域への立ち入りが制限されている」と門前払いを食らった。その数日後、タシュクルガンからパキスタンに入ろうとしたが、このルートも閉じられていた。それだけではない。
「なぜ外国人立ち入り禁止地域のタシュクルガンに貴様がいるのだ?」
と、タシュクルガンからカシュガルへ戻る途中のチェックポストで、別室送りに遭う始末。行きは通してくれたのに。
 上海からひたすら西へ、というのが今回の旅のテーマだった。しかし、タシュクルガンから先へは進めない。一介の旅行者にはどうすることもできない、「2001年11月の世界情勢」というやつが、俺の西と北の進路を塞いでいた。
 
 新疆自治区の南、西蔵自治区
 ユーラシアの真ん中の、ヒマラヤ山脈を中心に展開される高度3,500メートルをこ超える一帯はチベットの文化圏であり、そして現在、その大部分は中華人民共和国の国境内に含まれている。それが、西蔵自治区なのだ。
 南進して西蔵自治区を突き抜け、ヒマラヤを縦断すれば、ネパール、インドへ出ることができる。そしてそこから西へ、パキスタン、イランへと抜けていくことができる・・・
 西蔵に行ってみよう。他に方法はない。そう、思った。

 今から1000年前、チベットは中央ユーラシア有数の軍事国家だった。そして、その勢力範囲はチベット高原にとどまらず、一時期はタリム盆地にまで及び、ついには西域南道(タリム盆地南縁)を押さえるに至った。
 古来よりチベットの民が中心地ラサから西域南道へ出るには、2つのルートがあった。即ち、1つは西チベットからヒマラヤ山脈に沿って北上し、崑崙山脈カラコルム山脈の間をすり抜けてヤルカンドへ至る西方ルートであり、今一つは、チャンタン高原、ツァイダム盆地を突っ切って、河西回廊の西端の敦煌へ至る東方ルートである。かつて吐蕃と呼ばれたチベットの民は、これらのルートを通って、中央ユーラシアの東西を結ぶ幹線を押さえたのである。
 1000年後の現在、西方ルートは新蔵公路と、東方ルートは青蔵公路と、それぞれ呼ばれているが、外国人旅行者に公式に開かれていたのは青蔵ルートだけである(とはいえ、古来のルートからは少しずれてはいるらしいが)。

ツァイダム盆地のゴルムド(青海省)から旅行者をラサまで運んでくれる『闇バス』が出ている」
 大阪から上海までの船旅で僕の隣に寝転んでいた日本人旅行者が言っていたのを思い出した。『闇バス』というのもよく分からなかったが、これに乗りさえすればラサにはたどり着けると俺は思いこんでいた。そのゴルムドへは、敦煌甘粛省)からバスが出ているらしい。
 この時、カシュガルのすぐ南、ヤルカンドからラサを目指す新蔵公路の存在が思い浮かばなかったわけではない。しかし、当時の俺には致命的に情報がなかった。ヤルカンドからどうやって西蔵に入っていいか分からない。こういう時には、往々にして手堅い方を選んでしまう俺の性格、もどかしい時もあるが、仕方ない。
 とりあえずホータンなどの新疆南部の都市を巡りながら敦煌まで戻り、そこからゴルムドへ出てみよう。そうすれば西蔵へ入り込む手立てが見つかるだろう。
 かくして俺は、11月12日の昼のバスでカシュガルを出発し、ホータン、コルラ、トルファン敦煌とバスを乗り継いで、6日目の早朝に、ようやくゴルムドに到着した。